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桜宮高校の続き [世相]

警察は介入しない。
暴行が事実だと認定しているのに、桜宮高校、教育委員会はなぜ犯罪者を擁護しているのか。

30-40発殴ったのか、3-4発殴ったのかは問題ではない。
殴ったかどうかが問題なのに、現行の法曹ではその差異が事実認定に引っ掛かる。
3-4発殴った、では自殺との因果が認定できず、というのもおかしな話だ。
「公然と殴った」こと自体が犯罪なのに。

つまり、教育委員会は教育の独立を訴えながら、法曹的思考を働かせているのだ。
こういうことだ。

「犯罪」は、「事実」が「詳細」まで「明らか」でなければ「立証」されず、
「立証」の度合いによって「責任」は「増減」する。「事実」を自分が知っていても、
「ジャスティス」に従うことなく、他人が「立証」できるまで「責任」はなく、
また、「隠蔽」も許される。

これを教育委員は世間の高校生に訴えているわけだ。
冤罪とも言わないし、暴行を否定もしていない。

目的と場合によって犯罪は許され、立証されなければ責任の度合に軽重があり、
警察、司法の機関は遠ざけてもよい。
とまあ、こういうことだ。
判決により責任が定まるのは制度上の問題だが、暴行の事実を認めながら
犯罪実行者を隠蔽するというのは国民の義務に反する。
桜宮高校の生徒の会見は「目的の場合によっては犯罪を行ってもいい」
という教育の証拠だ。
「勝つためなら多少のことは目をつぶる」という言葉に置き換えられては
いるけれども。

こういうことは日本では当たり前に続けられている。
明確な被害者がいても関係なしだ。

このような公的教育をしているのでは大阪が犯罪件数が常に上位な理由がよくわかる。
橋下市長が「副首都」について力説しても、このような市民感覚を教育しているような市に
副首都としての地位を与えていいのだろうか、と思う。
東京で何かがあった時に、首都の発想ができるのか、ということ。
大阪の民度については批判がよくある。
関西以外の人から見れば一緒に思えるかもしれないけれど、同じ関西人でも「やだなあ」と思うことがある。

大阪の人は割と「それが大阪やねん」「大阪のxxxxはそれでええねん」とすぐ擁護の主張するけど、
自己防衛のぬるま湯につかってるように見えることがしばしばある。
テレビもそれを大阪文化と褒めて煽ってるように見える。
「ええかげんにせえ」と鋭く突っ込んで物事をはっきりさせる大阪文化が私は好きなんだけど、
「ええ加減」ではなくて「悪い加減」をええ加減に見逃す文化が年々強くなった気がして、
最近はそこがすごく嫌い。もう「面白おかしい」と笑えるラインは下回った気がします。
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