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芸能人と覚せい剤 [エンタテイメント]

日本では国内の芸能人のドラッグに非常に厳しい。それはそれでうっとおしい。

しかし、それ以上にうっとおしいのは、創作のプレッシャーから手を出した、とか、やめられなかった、
という芸能人のいいわけだ。
ドラッグから抜けられないのは弱いからではない。
中毒性があるからだ。効き目を愛しているか、忘れられないか、あるいは求めているからだ。
外国のミュージシャンなんかが、「好きだからやってる」と平然と言う。
それはたぶん本当だし、その方が信じられる。

昔々スタックしていた人がいた。今はすっかりクリーンだと風の噂できくのだが。
ありとあらゆるものを売り払い、金を借り、あらゆる形で金を調達していた。
気の毒だ思ったのと同時に恐かった。誰もが離れて行った。
何故なら、いざとなったら、彼らはアレの為ならお構いなしだからだ。
切羽詰まれば嘘をつこうが、盗もうが、とにかく金を準備する。
そういう時は元々いい人とか全く関係ない。
借金中毒と麻薬中毒は症状が似ている。

だから相方は離れて行ったのだろう。私はその気持ちがわかる。
アレの為に何か焦っていたり、金の為に言い訳を次々と考えたり、
やらないものからすれば気持ち悪いだけで、目にするのも嫌だが、本人は大まじめだ。
元々いい人かどうかは関係ない。

だから、仕事のストレスから、とかプレッシャーとか、関係ないのだ。
そんなものは表面的な中毒者のいいわけに過ぎない。
ストレスやプレッシャーは心療内科で緩和してもらえる。
本人は大まじめに演じているつもりだが、それは嘘っぱちで、ただやりたかった、
抑えられなくなった、というだけなのだ。
悲劇の主人公など演じたり、人生を語ったりせず
「楽しむためにやってた。もう止めたけど」と振り返って言えるようになるまでしっかり抜くか、
軽いものだけにするのか、
お仲間と今後もどっぷり楽しむかは本人しか決められない。

抜いたほうがいいと思いますよ、ほんとに。

韓国のピサの斜塔崩壊 [海外]

完成を目前にして大きく傾いたオフィスビルの崩壊。
なんじゃそら、である。
一流国家だ先進国だと自己申告が「多かった」国であるが、
またまた自他共に認める三流ぶりを露呈してしまった。

はっきり言いますと、このようなことは先進国ではまずありません。
なぜなら、先進国だから。
なぜ起こるかというと、先進国じゃないからです。

基礎がなかったのか、重量を計算に入れてなかったのか。
前に商業施設が崩れたことがあったけど、何一つ変わってなかったということ。
産官の癒着で国民は片づけたがるけど、そうか?

産の中に自浄能力がなく、コンプラチェックシステムもなく、第三者からのチェックがない。
官は袖の下さえあれば何でもOKの奴がいるということか。
買収されていようが、社員が支配下にあろうが何であろうが、誰も止められない。
そういうもんだという認識が後進的なのか、国民性かは知らないが、とにかく誰も止めようとしない。
結果的に携わったもの全員の総意としては、崩れても自分に責任がないからやむなしでもいい、
ということなのだ。

自動車もそう。燃費のいい車が売れるからと燃費をごまかす。
デザインや基本性能はあるのだから、そんなことしなければそれなりには売れるのに。
先進国ワナビーズ丸出しだ。

日本なら、癒着して袖の下を抜こうが、闇経済が入ろうが、防災施設がいい加減であろうが、
建てたビル自体が崩壊したりさせないし、手抜きやずさん工事であっても「死なない程度」の範囲
に納まっている。形式的にOKでないと建たないし、商売にならない。ましてや自分が死んでしまっては
何にもならない。

新築ビルが崩れた、ということは日本では聞いたことがない。
それだけは言える。
このままではビルを借りるのもビビる。
チャイナリスク同様コリアリスクも相当考えなければならない。
1000年も中国に冊封されてきたから、根が中国式なのかもね。

以前は韓国の車もテレビも製品にいい印象を持っていたのだけれど、反日運動と経済の行き詰まり
の時期が非常に近く、不況と反日をトレードオフさせようとしたのだとしたら、非常に強い懸念が政財界
にあったのではないかとさえ思う。
まったく残念な状況だ。

美味しんぼと甲状腺がん [原発]

美味しんぼの鼻血の話が話題である。あの表現は欺瞞、とする声が多い。
しかし、新聞上でこんな記事が載っていた。
福島の甲状腺がんの子供が50人、疑いがあるのは39人。福島の子供の数は243000人
と言われているので、0.03%である。
全国で約9600人の患者が推定されている。人口1億2700万で割ると、0.007%である。
ありとあらゆる世代、要は高齢の患者まで入れても5倍である。
甲状腺がんの罹患率が高い、といったらこれは風評被害だろうか。

風評被害が出て、福島の子供たちが可哀そうだから、人権侵害につながりかねないから、
福島を支えているのに、という美談で隠してしまっていいのだろうか。
確かに、福島の子供たちは今後差別を受けるかもしれない。
これが何の事故もなく差別を受けるというのは風評被害だ。
だが事は既に起こり、子供だけでなく、親も発病のリスクに震えているのである。

これまでが風評被害なのか?違う。
これを風評被害と言ってしまえば、発症しなかったから被害なし、実害なき場所に補償なしである。
実害はあるのだ。小さいところからいえば、無料であれ何であれ検査に拘束されるし、経済的被害は出る。
大きなところは命、人生そのものである。この間にものすごく細分化された実害の段階が子供の人数分だけある。にもかかわらず、科学、医学分野の大事を風評被害の言葉を盾にもみ消していいのだろうか。
このままだと逆に子供の被害がなかったことになってしまうのではないかとさえ思えてくる。
隠しても出てくる。未だに新聞とテレビがメディアの中心だという旧時代の傲慢さだと思う。

人生の被害というカテゴリーの中に結婚が挙げられるだろう。しかし善悪では語れない。
子孫を残したいとか、子孫を残す為にパートナーを選ぶとか、理性では越えられない人間の本能の話があるからだ。野生動物でも強い、弱い、生存能力、繁殖能力などは選択されている。それ以上の情報を得ている人間が不健康な可能性のある相手、子孫に影響が出る可能性のある相手を選べなかったとしても、生物である以上、正常な範囲だとしか言いようがない。選べなかった人を理性的分野だけを見て「差別者」と決めつけるのはあまりにも酷だ。子供が欲しい男女が、生き物である以上お互いの年齢や能力を判断材料にせざるを得ないように、子孫の安全や繁栄を願うことは本能だ。選べなかった人も事故の被害者だ。
逆に、理性・本能を超えて相手を愛する人もいるだろう。それはいっこうにかまわない。
ただ前者を悪、後者を善というのは短絡的すぎる。
このようなことは風評被害という名の「何もないところの被害」とは言えない。

しかし、事実もう起こったことなのだから、我々にはどうしようもない。理性的に判断できる材料はまだない。
科学的にガンが増えるのか、短命になるのか、はたまた遠い将来にDNAに異常が出るのか。
そんなことは可能性がある以上現在の科学は否定できない。時間を追わないとわからない。
だから、風評被害という言葉を簡単に使う連中は信じない。
大丈夫かもしれないし、ものすごいダメージなのかもしれない。
大丈夫、というのは軽微で問題がない、というところまでを含むとしても、今のところ
危険という可能性がある以上、危機を回避することを責められない。

風評被害とか差別とか、そんなことより、子供の命の本当の実態をしっかりと見ることだ。
死んだらその子には風評被害や差別すらないのだから。

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